2007年05月20日

妥当な判断に思えるが

■「髪の色で否定、納得できない」 16歳“茶髪”少女、バイト先でクビ通告→個人で労組に入り、クビ撤回させる(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/976139.html
何で痛いニュース扱いなのかは理解しかねるが。

□「社会人たるもの、如何に非人間的な扱いをされようとも雇い主に媚び諂わなければならない」…という意見が大勢を占めているのを見ると、パート派遣だけではなく正社員からも搾取し続けようって発想がまかり通るのも無理はないと納得させられる。

■一方で
“若者、車離れ” 日本国内で車売れない…トヨタ、本気でアイデア募集(http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/975891.html
こっちでは「従業員から搾取して利益二兆円とか舐めてんのか」「トヨタ死ね」の大合唱なわけだが。

□別に茶髪でもいいじゃないと主張するわけではないが、契約で縛られていない事を理由に解雇されそうになった被雇用者を批判し、他方契約で縛られている事を理由に(少なくとも期間工なり派遣労働者は取り扱いや賃金に関して雇用主と合意の上で雇用されているわけで、そういった労働者を増やして自社の利益を伸ばすことに対する批判はありえても、契約を結んだ労働者をそのように取り扱うことについては批判される余地がないはずなのだが)雇い主を批判するのは矛盾しているように…まぁ書き込んでる人間が同一なわけがないのでしょうがないんだろうな。編集方針については矛盾が見えるというだけか。

■辞めてやる!が唯一残された武器ではあっても、その武器で傷つくのは自分と同じ境遇の同僚だったりするわけで、会社そのものを相手取ろうと思ったらそれなりの集団や組織の力を借りないと無理じゃないの、と。まぁうちも同期が辞めるかもとか、プロジェクトの中心にいた主任が退職とか、あんまり状況はよろしくないわけですが。
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2006年07月16日

「SILENT HILL」レビュー

■梅田ピカデリーで「SILENT HILL」(公式)を見てきたのでレビューを。ネタバレ含みます。

□まず特徴を箇条書きで。
・監督の原作への愛が伝わってきます。原作BGMの使用、街並みの再現度、序盤の展開。
・血みどろ系のグロ描写多目。
・町でちらついているのは雪じゃなくて灰。
・主人公は女性に変更。
・アレッサは『神』を身篭っていない。
・ダリア・ギレスピーが黒幕じゃない。

■監督は原作の大ファンだそうで、原作をプレイしたことがあるなら要所要所に使われている原作のBGMや街並みの再現度にニヤニヤ出来ること間違いなし。オープニングで原作のOPデモのBGMが流れたのには痺れました。原作のOPデモ〜最初の『暗転』もかなり忠実に再現されています。

□街に関する設定に関しては一点だけ、サイレントヒルに降っているのが雪ではなく灰であり、これはサイレントヒルがゴーストタウン化したのは30年前の大火事が未だに地下の石炭を燃やしながら続いているためである、と変更されています。これについては『暗転』によって世界が変貌していく様の描写とあいまって非常に秀逸な変更だと感じました。原作では血と錆で表現されていた裏世界のイメージに炎を加えて、煉獄を連想させるものに仕上げています。

■ストーリーは大筋では原作と同じですが、幾つか変更点も。原作では『神』を宿す儀式の最中の失火によって大火傷を負ったアレッサが生きている(死ねない)のは、母親であるダリア・ギレスピーによって召喚された『神』を身篭っているからであり、サイレントヒル自体の異変も、『神』の力として説明がなされます(注1)。そのため事件の黒幕/原因は『教団』の聖女派に属していたダリア・ギレスピーの存在/行為です。

注1:原作の2以降は、サイレントヒルという場所自体が何らかの力を持っており、そこに迷い込む者たちの心の中/トラウマと向き合う場所として描かれているので、アレッサの存在とは直接関係はなくなっているわけですが。

□この点に関しては、アレッサが大火傷を負ったのは魔女狩り・悪魔祓いの儀式によるものとなっています。これはダリア・ギレスピーがシングルマザーであったことに関する周囲の批判と偏見、それに基づいたアレッサに対するいじめ(というより迫害でしょう)がエスカレートした結果という設定。ダリアの姉であるクリスタベラが執り行った悪魔祓いの儀式の最中に発生したアクシデントにより(注2)、アレッサは重度の火傷を負いながらも、かろうじて命を取り留める…ということになるわけですが、表皮が真っ黒になるほどの火傷を全身に負っていたら普通死にますね。単なる女の子だったわけですから、これはかなり不自然です。

注2:石炭の上で生きながらにして炙り焼きにされていた時に、アレッサを拘束していた金網を天上から吊るしていた鎖が外れ、金網がぶつかって石炭の炉を転倒させるという描写があります。これがサイレントヒルの火災の原因。


■『神』の存在が省略されている(注3)ため、サイレントヒルに異変をもたらしたのは、瀕死の重傷を負ったアレッサの苦痛から生じた憎悪という設定に。こちらはアリとしましょう。ただ、原作のような『大きな嘘』がないので、異変の説明としては若干劣ると感じました。逆に、ある種の正義(クリスタベラの信仰、ローズのシャロンを助けるという意思)が、時として他人を害するものになるという悲しさの表現にはプラスに働いています。

注3:『神』の存在はクリスタベラの信仰によって表現されているともいえますが、こちらはサイレントヒル自体に直接的に力を振るうわけではないですね。


□事件の原因については、アレッサの負傷の原因はダリア・ギレスピーではなくクリスタベラにあるため、ダリアはどちらかというと被害者的な立場にあります(アレッサを失ったことで精神に失調をきたしています)。ストーリーの結末としては、シャロンを助けるためにアレッサ(の暗黒面、ダーク・アレッサ)と手を結んだローズが教会の結界を破壊、地下から呼び出されたアレッサによってクリスタベラを始めとした教会の住人達は皆殺しにされるわけですが、この因果応報的なまとめ方は原作と同じといえなくもありません。クリスタベラたちはシビルも殺してるのである種のカタルシスを得られる構図といえるでしょう。

■で、全体として面白いかどうか、という評価を下すのであれば、「前半100点、後半50点」。過去の事実(?)をローズ/観客が知るのがダーク・アレッサによるモノローグだったり(グッチ警部がクリストファーに話すとかでもいいんじゃないのかしら…イイコトナカッタ兵だったし)、恐怖の演出が血みどろスプラッタ寄りだったりするのは「うーん」という感じ。アレッサの有刺鉄線触手や三角頭の「つかんでひねって引き裂き真っ二つ」な殺戮劇は完全に吹っ切れた演出してるなぁとある種の爽快感さえあるんですが、でもサイレントヒルの恐怖ってこういうのだったっけ?と(注4)。あと、ラストの演出は、やっぱりサイレントヒルから戻れませんでした…ってことなのかしら。若干意味を掴みかねました。

注4:JOJOの擬音で例えると、バイオハザードが「ドッギュゥゥン」に対して、サイレントヒルは「ドドドドド」なんじゃないかと思います。


□総評としては、原作ファンなら見た後に色々話に花が咲きそう、ということで。映画単体として予備知識なしで見るのはおすすめできかねるかな。

■ジョデル・フェルランド演じるダーク・アレッサ(否シャロン)はガチ。邪悪な笑みが強烈です。
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2006年06月12日

何がしたいんだろう

■この先数年は間違いなく会社員をやる予定ですが、果たして自分がやりたいことは他にあるんじゃないかと思わないでもありません。大学院行って研究者になって…というのは夢物語ではありますが、狙っていないわけでもなく。

□ただ問題なのは研究者になるということが手段なのか目的なのか、どんなことのためなのかが今一つはっきりしないことでしょう。今の仕事の将来性云々や働き方云々からの逃避として、象徴的な『IFの可能性』である研究職になりたいと考えている側面は確かにあります。実際のところ、それで飯が食えるようになるかどうかは非常に危ういところであり、また研究職としての働き方が今より楽かどうかも微妙なところです。

■「やりがいがあるじゃないか」という反論、これは今の仕事にも同様に当てはまることであって、どんな仕事であれ、そこに課題と責任と評価があればやりがいを見出せないということはないはずです。とすると、現在の状況に今一つやりがいを感じないとすれば、それは『IFの可能性』を保持することで自分自身の将来に向けた行動に留保をつけているからだといえるでしょう。やりがいは自然と発生するものではなく、自分で見出していくものだからです。

□こういう前提に立つと、どんな仕事を選ぶかということについて、自分の行動と平行して抱く『自分が何をしたいのか』という疑問は非常に微妙なものになってきます。自分が何をしたいのか、その(積極的な)理由は何なのか、こういうことを考えているうちは既に述べた「行動に対する留保」を採用している状態なので、何事に対してであれやりがいや楽しさを抱くことは難しくなります。

■結局のところ、『何をしたいのか』と考えているうちは『これがしたい』と断言できるものを見つけることはできず、『これがしたいんだ』という状態以外でしたいことを抱えることは出来ない…出来の悪いトートロジーになってしまいました。ただ、自然発生的に確固たる『やりたいこと』が生じてくるはずだ、ということ自体はモラトリアム的な発想なのかもしれません。

□今日のまとめは『やりたいこととは今自分がやっていることである。何故なら行為に没頭しない限り、その行為に対してやりがいを感じることは出来ないからだ』ということで。
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2006年05月23日

入院したいりゃうよー

■スティーヴン・オーゲル『性を装う』の序章に、筆者が学生時代に所属していた演劇部の顧問が異性装を用いたシェイクスピア劇の上演計画に反対したというエピソードがあった。反対した理由は確か、「異性装をすることで教え子がホモセクシュアルになってしまうと思ったから」だったと記憶している。卒論の資料として読んでいた当時は「何をおバカなことを…」という印象しか持たなかったが――というのも卒論で行っていたジェンダー分析中では、『社会』から身体的性別にふさわしいとして要請される振る舞い、すなわちジェンダーと、個人の性的嗜好などを含む性的なあり方であるセクシュアリティは別個のものとして明確に区別され、さらにその二つと身体的性別であるセックスも区別するのが前提だったからだ――、今改めて振り返ればこの考え方はもっとラディカルな可能性を持っているといえるんじゃないか、と気づいた。

□「異性装をする(=別のジェンダーを身につける)」ことで、個人が持っているセクシュアリティが変化しうるという前提がなければこのような危惧は生じない。ジェンダーとセクシュアリティが一体化している(さらにそこにセックスの一体化も含まれる、いわば本質主義的な考え方ではあるが)という見方をしてはいても、それらが不変なものだとは見ていない、ということだ。「男性が女性の服装をするのが変なこと/不自然なことだから反対する」という見解の裏に、パフォーマンスを通じて構築されるジェンダーの可変性と、それを防ごうとする権力のイデオローグを見るという手法は(戦略としては有効かもしれないが)一歩間違うと単なる言葉遊びや、表現されたことに対する自由解釈の堂々巡りに巻き込まれてしまう可能性を持っている。

■それに対して、異性装を通じてセクシュアリティが変化する危険性を主張するということは、素直に受け取ってもジェンダーやセクシュアリティがセックスに基礎を置く不変のものではないという考えの表明である。なるほど、だからこそオーゲルはこのエピソードを序章に置き、その後のジェンダーとセクシュアリティの分離や歴史的(時代によってジェンダーの中身は変化する)・個人的(個人の意思によって獲得されるジェンダーは変化する)可変性を論じていっているわけか…とようやく気づいた次第。

□で、そういう細かい部分も考える必要があると思うんだけど、もっと大きな枠組みを考える必要もあるなとこの前思ったのだった――つまり、「ジェンダーについて研究するって、どういうこと?」という問いに答えられないといけないよな、ということ。むかーし(3、4年前)は「ジェンダーを研究して男女間の不平等をなくせば社会は良くなるんだ!」と素朴に信じておりましたが、社会に出て働くことが万人にとって良いことなのかといわれるとそうではないだろうし…と歯切れも悪く、「男女間の、の男性と女性ってくくれるほど均一な集団ではないよな」という基本的な問題も生じてきて――こういうことも細部なのかな。入院したいなら、まず「ジェンダーを研究することによって生じるのは、ジェンダーを誰がどのように利用するようになることなのか」を考えなきゃいけないでしょうね。

■抑圧とか解放とかという観点から、「社会」によって個人のある意味での統制に用いられてきたジェンダーを、統制されてきた個人が自らのために利用できるようにすることがジェンダー研究の目的だと仮定する。だけどこれは単純な社会/個人の対立論であって、「社会」というものは実体を持つわけではなく、ある意味では個人の行為の積み重ねであるという観点が死んでしまう(その結果、個人の行為の積み重ねで社会の中のジェンダーが変更できるという考え方も死んでしまう)ので自縄自縛。かといって個人レベルで、自らの行動や振る舞いに対する他者からのネガティブな干渉や影響を排除するためにジェンダーの自由を振りかざすというのは、それが専守防衛的ではあっても他人の支配とは無関係ではいられない権力関係を含んでいるような気がする。

□「〜でなければならない」から「〜であってもよい(最終的にはそのような判断そのものが行われなくなる)」への変化を求めるにしても、過大な自由が必ずしも幸せをもたらすのかといわれると不安になる。ある程度枠があるから、同質な(あるいは同質になるように訓練された)人間同士の繋がりができ、その中に安心できるコミュニティができる。それを一切取り払ってしまうのは結構怖い…というのは日本人思考なのかな。だけど日本人思考そのものが悪いことじゃない。それぞれ互いに異質な特性を持った人間同士が関係を結ぶことに不向きだというだけで、関係を結ぶことを良いことだと評価する価値基準と無関係に良し悪しが決定されるわけではないのだ。

■そうなるとジェンダー研究とは、究極的には「今まで社会の中で規範として機能してきた、男女間の振る舞いの差などに対する行動の評価基準を明文化・相対化・解体していくことであり、ジェンダーを誰によっても、どのような意味でも利用不可能なものに変えていくこと」ということになるかもしれない。あれれ、壊して再利用不可能にするために研究するって、なんだか非生産的なような…おっと、文系学問自体が非生産的のレッテルを貼られがちだということを鑑みれば今更な話かな。
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2006年04月18日

気づくと遅くなる

■順調に仕事を消化して「これなら定時に帰れるかしら」と思っていると、直前に厄介な問い合わせがきたりします。躊躇ったら帰れなくなると思って、運よく遭遇してないときはさっさと逃げたほうがいいのかも。

□OWN RAGNAROKのニュースヘッドラインとかBBSが結構楽しくて、今でもよく見ているんですが、今日出掛けに覗いたら「結婚と出産を機に退職する女性を採用しないのは区別、そういう行動をする女性が多いから企業は採用しないのだ」とか、「サービスディのある女性は優遇されている」いう発言があってほほぅ、と感銘を受けました。

■「女性は結婚をすると仕事をやめる傾向が(男性よりも)あるから、採用基準が厳しくなるのは差別ではなく区別」が真だとすると、その単純変形の「難関大学出身ではない人間は(難関大学出身者よりも)能力が低い傾向にあるから、採用基準が厳しくなるのは差別ではなく区別」も真となりますね。甲発言すると大抵は「出身大学ではなく本人の能力を(ry」というレスが付きそうですけども。

□ま、区別なのか差別なのかの線引きはなかなか難しいと思いますが、他方明確なのは「結婚を機に辞めない男性=普通、辞める女性=区別であって差別ではない」としながら、「サービスディのある女性=優遇、ない男性=差別」という論を展開する人が、純粋に両者間の取り扱いの違いについて言及しているわけではないということです。

■二者間の待遇の違いは相対的なもののはずなのに、なぜかそこに優遇/普通/差別という絶対基準が入り込んできている。純粋に二者間の待遇の違い(というよりも両者間の取り扱いにおける差異)を論じるなら、一方を普通として他方を評価は出来ません。勿論どのような点においてどのように優遇/差別されているか、という議論をするためにはこの純粋さは維持されえませんから、この二者関係に『普通』という基準を持ち込んで優遇/差別を論じるなら、それは何らかのイデオロギーや言説の影響を二者間の関係に持ち込むということになります。

□別に女性は差別されているんだ!と叫ぶわけではないのですけども、企業が今でも『労働力は無限に供給される』という前提に立っているとするなら、労働力の再生産活動たる家庭生活を省みていないという批判は出来るでしょうし、それゆえに実質的に家事労働等をしながらの勤務が不可能な状況が多発していると推測するのは不自然ではありません。少なくとも積極的に女性に出産を勧めているというよりも、『せざるを得ない』という形で働きかけているように思います。

■最近は『してもよい』という形も出てきてはいますが、配偶者の協力があっても、子育てと勤務の両方をこなすのは大変だろうなー、と。自分がどこまで協力できるのかも若干不安ではあります。ま、彼女にパートなり何なりで働いたほうがいいんじゃない?と言っているわけですから応分の協力は当然の義務。んで家庭>会社である以上、必要とあらば仕事を犠牲にするのは当然ですよね。

□ん? 『そんな個人の都合は会社の都合の前では通らない』ですか? ふーむ、「働くことを強制されている男性は差別されている」と言ってくれてもいいんじゃないかしら。
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2006年04月12日

デレデレ勤務

■分類してみる。
ツンデレ=午前中忙しく午後は暇、定時上がり
デレツン=午前中暇で、定時間際から忙しくなる。残業。
ツンツン=激務
デレデレ=一日暇。定時。

□フェミニズムって何なんですかね。理論? 思想? 信条? 行動? よく分かりません。

■子供を生んで幸せーって感じている女性の感覚は、社会的に後天的に獲得させられたものなのか、彼女が主体的に獲得したものなのか、それとも先天的に生物学的に決定されているものなのか、どうやったら区別が付くんでしょうか。その判断には論理的な正確さではなく、戦術としての理論構築が優先されるということなんでしょうか。要するに『子供を生んで幸せ、という言説は男性中心主義に染まった(染められた)女性が作り出しているに過ぎない』という評価を下す正当性ってどこに?ということです。

□そもそも唯一無二の真理など存在しないというのが構造主義なわけで、となるとある状況を一義的に観測し、そこから同様に一義的な意味解釈を行うということ自体が無理ということに。多義的に観測された状況を多義的に解釈し合っているのが現実であるならば、フェミニズムも他の思想もある個人・集団が個別に持っている『理想』を追求するための手段に過ぎないわけです。手段として評価されるなら、これらの思想の優劣はどれだけ多数の賛同を得られるか、それによってどれだけ平易に現実を変えていけるか、という点に限定されます。そうすると現実をどう変えていくのか、変化した現実はどのようなものかというヴィジョンが不可欠ですが、フェミニズムにはそれがないように思えます。

■女性が被っている(とフェミニズムが主張している)不都合や不便、不利益が解消されることに反対するわけではないんですが、しかし突き詰めていったときに発生する経済的先進国/後進国という対立項の間に生じる支配/被支配の関係と利益/不利益の解消という観点を考えると、今の生活がプラスにならない人たちはどんな論理的正しさがあってもその解消に賛同しないだろうな、と。現に一国の中においてさえ、既得権益を持つとされる男性がフェミニズムを批判するという構図を見出せるわけですし。

□学生のときは論理的正しささえあれば人は動くもの(あるいは、動くべきもの)と素朴に思っていましたが、なかなかどうしてそうはなれないものなんですね。

■ジェンダー規範があらゆる個人に内面化されているとするなら、その矛盾を追求していくこともすなわち自己の疎外を引き起こすということにならないんでしょうか。詳しい人説明plz。かといって、社会のルールに埋没して没個性化しながら無自己的存在として形成されていくというのもぞっとしない話ではあります。その中間を採用する『マドンナの戦術』も批判から無縁ではないしなぁー…。
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2006年02月04日

へー

「世界にもっとも良い影響を与えている国」(産経新聞)…へぇ、案外好印象をもたれてるんですね。確かに国連分担金とかODAとか(一般に認知されてるかどうかは別としても)たくさん出してますし、憲法で他国への軍事侵略を禁止してますし、この60年間戦争をしたこともないし、領土紛争も話し合いで解決しようとしてるし、確かに他国がマイナス印象を抱くことは思いつかないかも。

□太平洋戦争当時、日本の領土であった東南アジア諸国のデータをみると結構面白い。インドネシアで85%、フィリピンで79%とかなり好印象が勝り、時々国旗を焼いたりして日本に対して複雑な感情を持っていると言われる韓国でも44%対54%でやや悪影響が勝る程度。まぁこれをもって太平洋戦争当時の日本の行動がどう思われているかを論じるのは無理ですが、全般的には日本は東南アジアの国々に評価されていると言っていいでしょう。

■その中で中国のデータは好影響16%対悪影響71%と平均値からかなり離れているわけですが、こういう話を見る限り、プロパガンダと教育のせいじゃないのかと勘ぐってみたくもなります。

□ただ、この調査を行ったアメリカの会社がどういう意図を持ってこの調査をしたのかによっては鵜呑みにするわけにもいきません。何せワースト2にアメリカがいるわけで、ブッシュ政権への批判の為に調査をしたという可能性もある。好印象の一位は別にどうでもいいんじゃね?というつもりだったなら、それに踊らされるのも馬鹿な話です。

■でもこういう情報を聞くと結構嬉しかったりするのも事実。
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2005年11月08日

簿記式ダイエット

 簿記の知識のある人はダイエットに成功する……そんな話を聞いたことはありますか? 多分ないでしょう。このとおりGoogleにも引っかかりません。今日は特別にこの簿記式ダイエットについてお教えしましょう。

 簿記というのはご存知のとおり、商売上の物やお金の動きなどといった経済上の活動を記録しておく技術です。一般的に簿記というと、借方と貸方に物事の内容(科目)と金額を記入し、それぞれの値が等しくなるようにして記録を付けていくやり方をしますが、これを複式簿記といいます。例えば100円でジュースを買ったとすると、複式簿記では以下のように記入することになります。

借方/貸方
ジュース:100円/現金:100円

ジュースを飲んでしまった場合、ジュースに使ったお金は食費になりますから、

食費:100円/ジュース:100円

となり、最終的には

食費:100円/現金:100円

となって、食費に100円分の現金を使ったということがわかります。

 ではこの簿記とダイエットはどう関係するのでしょうか? ダイエットの目的は体重を落としてスマートな体型や健康な体を手に入れることです。そのためには基本的に体についた余分な脂肪を落とす必要がありますし、そのための手段として運動や筋肉をつけるといったことが必要になります。
 栄養学では脂肪1gから生じる熱量(カロリー)を9キロカロリーとしています。人間の体に蓄えられた脂肪には20%の水分が含まれているため、体内の脂肪1gから生じるカロリーは7キロカロリーということになります(参考)。
 また、人間が生きていくうえではどうしても熱量が必要になります。心臓などの不随意筋の動きや体温の維持などにカロリーが消費されるからです。これを基礎代謝量と呼びます。基礎代謝量は年齢や性別、体格によって異なりますし、さらにどの程度運動をするのかといった生活習慣によって一日に必要なカロリーは異なりますが、生きていくうえで最低限必要なカロリー量が存在しています。(参考)。

 ダイエットの基本構造は、体内に蓄えられた脂肪をカロリーとして消費することです。さまざまなダイエット法がありますが、どれもこの基本構造から無縁なものではないのです。運動でカロリーを消費するのか、満腹感を得るサプリメントで摂取カロリー量を減らすのか、筋肉をつけて基礎代謝量を増やすのかという違いはあれど、結局のところカロリーが消費量>摂取量にならないかぎりダイエットに成功することはできません。
 ダイエットになかなか成功しない方に多いのですが、その場その場でカロリー量を気にはかけても(夕飯は食べない、お昼はサラダだけなど)自分の生活全体をトータルに考えてカロリー量を把握していない場合があります。そこで活用するのが簿記の考え方です。

 通常の簿記の場合、基本的に借方には商品や仕入れにかかった費用を記入し、貸方には負債や売上、資本を記入していきます。これをダイエットに応用する場合、借方には摂取カロリーを、貸方には消費カロリーを記入していきます。例えば、800キロカロリーの食事を取った後、一時間の運動で100キロカロリーを消費した場合、以下のようになります。

借方/貸方
カロリー:800kcal/食事:800kcal
運動:100kcal/カロリー:100kca


カロリー:700kcal/摂取:800kcal
消費:100kcal/


 この状態では借方にカロリーが700kcal残っているという状態になります。先に脂肪1gが7キロカロリーになると述べましたが、その逆に7キロカロリーが1gの脂肪になるとすると、この状態は最終的に以下のようになります。

脂肪:700kcal(100g)/カロリー:700kcal

脂肪:100g/摂取:800kcal
消費:100kcal


 さて、勘のよい方は既にお気づきと思いますが、簿記式ダイエットではここであなたが落としたいと思っている分だけの脂肪の量をカロリーに換算し、それを簿記の要領で記録していくことになります。注意しなければならないのは100gの脂肪を落として100gの筋肉をつけることは体重の上(借方/貸方の合計)では変化はありませんが、脂肪量を落とすということや、太りにくく痩せやすい体を作る上では有意義だということです。

 簡単な例として、必要カロリー量2000kcal、体脂肪率25%で体重65kgの人が体脂肪率を20%にしたい場合を考えてみましょう。まず体内にある脂肪量は65*0.25=16.25kgです。体脂肪率20%となる脂肪量は12kgですから、その差は4.25kg。カロリーに換算して4250*7=29750キロカロリー。これがこの人の資本金になります。

借方/貸方
脂肪:29750kcal(4250g)/資本金:29750kcal

 これから好き勝手にリターンのない投資や無駄遣いをしてこの資本金を使い切っていくわけです(普段はなかなかできないことです、なんだかワクワクしませんか?)。まずは一日単位で考えましょう。

必要量:2000kcal/カロリー:2000kcal
カロリー:1500kcal/食事:1500kcal
運動:200kcal/カロリー:200kcal


消費:2200kcal/摂取:1500kcal
資本金:700kcal(100g)/カロリー:700kcal
           /本日のダイエット効果:700kcal


 『本日のダイエット効果』というのは簿記でいう当期純損失のようなものです。一日を単位として考えると、翌日からはこの損失分だけ全体の規模、すなわち体重が減った状態になるということになります。毎日これをやるのは面倒かもしれませんが、こうやって細かい部分まで把握することで小口のカロリー摂取を見つけ出したり、意識的に消費行動をする動機付けを行うことができます。トータルで自分のカロリー摂取と消費を把握する癖をつければ、ダイエットの成功率はグンと高くなるでしょう。
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2005年10月31日

無題

心霊写真はあるよ派─┬─写真そのものがまずいよ派(本質論)
              │   │
              │   └─写真を見ることが問題だよ派(認識論)
              │
              ├───ネガのほうがまずいよ派(根源論)
              │
              └─写真は問題ないよ派(関係論)
                │
                ├─写真は媒介に過ぎないよ派(媒介論)
                │ │
                │ ├─写真を通して影響がでるんだよ派(媒介論)
                │ │
                │ └─デジカメでも心霊写真は取れるよ派(形式論)
                │    │
                │    ├電子データでも心霊写真になるよ派(IT万能論)
                │    │
                │    └形式さえあっていれば影響力があるよ派
                │             (悪魔召喚プログラム論)
                │
                └写真に念が籠って心霊写真になるよ派(認識発生論)
                  │
                  ├心霊写真だと思うから影響がでるんだよ派(思い込み論)
                  │
                  └写真が取れるような場所に行くのが一番まずいよ派
                      │              (そもそも論)
                     │
                     └外出しないほうが安全だよ派(引篭もり) 

心霊写真なんてないよ派─┬─三つ点があれば顔に見えるよ派(認知科学論)
                 │   │
                 │   └先入観があれば何でもそう見えるよ派(思い込み論)
                 │
                 ├─環境や機械の具合だよ派(分析論)
                │   │
                │   └おかしな画像が全て心霊写真というわけではないよ派
                 │                     (分類論)
                 │
                 └お化けなんてないさ派(無神論)
                     │
                     └寝ぼけた人が見間違えたのさ派
                             だけどちょっと怖い論)
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2005年10月25日

存在あるいは方法論としての霊

 先日『怖い話のエッセンス』ということで霊的存在について書いたが、あの後彼女とお化けの話をしたついでに、自分がオカ板等を見ていて感じた霊というモノの扱われ方について書いてみたい。
彼女とお化けの話をしたきっかけは『サラダ男』スレの発端となった写真を自分が無警戒に見たことだったのだが(サラダ男自体はネタらしいが、写真そのものは一応心霊写真に分類されるようだ)、まずこの時点で『心霊写真が持つ霊的影響力は、ネガから印刷されたハードコピーを媒体として発揮されるものなのか、それともデジカメの画像という二進法のデータであっても問題なく発揮されるものなのか』という論点が浮上してくる。
 二進法のデータとしての存在であっても心霊写真が霊的影響力を持つならば、ネット上にアップロードされた写真を見て被害をこうむるのもうなずけるわけだが、逆にいうと心霊写真そのものが霊的影響力を持っているならば、それは霊が写っているから影響力を持つのではなく、ある特定の図形や構図(を形成するデータ)が存在しているから影響力を持つのだ、ということになる。ただしこれは霊的存在の写りこみの有無と写真の影響力の有無が無関係だということではなく、霊的存在の写りこみによってデータ上に特定の図形や構図が構成されるのであれば、霊的存在によって影響力を持つ写真は存在することになる。一方デジカメのデータであっても影響力を持つのであれば、それがたとえ通常の撮影では生成されないようなデータではあっても、人為的な加工によって作成されうるため、影響力を持つ写真全てに霊的存在が写りこんでいるわけではない、ということになる。以上の仮説からすると、

 霊的影響力を持つ写真には全て霊が写りこんでいる:偽
 霊が写りこんでいる写真は、全て霊的影響力を持つ:偽?(ただ写っているだけのものもある)
 霊的影響力を持つ写真には、霊が写りこんだ時にも発生するある種の構図や図形が含まれる:真
 霊が写りこんだ時に発生するある種の構図や図形を含む写真は、全て霊的影響力を持つ:真

ということになるが、果たして心霊写真そのものが霊的影響力を持っているのだろうか?

 心霊写真の影響力の源というのは霊の存在であるという考え方も存在するし、ある種の図形や構図を持っていてもそこに霊的存在が介在しなければ影響力を持たないのではないか、という反論も考えられる。見た目が同じなら中身も同じなのか、というわけだ。
 このような立場を取る場合、心霊写真の持つ影響力というのは、写りこんだ霊的存在とそれを見た人間との間に、霊的影響を及ぼすことのできる経路を作り出すこと、ということになる。そのためデジカメのデータを操作し、霊的経路を作り出すような図形や構図を作り出したとしても、その先には何も存在しないため、霊的影響力はないということになる(これはこれで問題はあるかもしれない。道だけが存在しているということは、その先に何かが存在し始めれば影響もまた生じ始めるということになるし、また道を逆にたどって存在が発生するかもしれない。後述。)。以上の仮説からすると、

 霊的影響力を持つ写真には全て霊が写りこんでいる:真
 霊が写りこんでいる写真は、全て霊的影響力を持つ:偽
 霊的影響力を持つ写真には、霊が写りこんだ時にも発生するある種の構図や図形が含まれる:真
  →経路は常に必要
 霊が写りこんだ時に発生するある種の構図や図形を含む写真は、全て霊的影響力を持つ:偽
  →経路の先に霊的存在がなければ影響力は持たない

 霊的存在の実在を信じている自分としては心霊写真は経路説を採用したいところだが、その場合もう一つ問題が生じてくる。経路が生じてはいるが実際には霊的影響力を持っていないような写真(加工されたものであれ、偶然生じたものであれ)が影響力を持つ心霊写真として扱われた場合、その写真が霊的影響力を持つようになる可能性はあるかどうか、ということだ。『念が籠る』と表現される現象が実際に起こりうるのであれば、おそらくその写真は「心霊写真化」することになる。または、初めから霊的影響力を持っている写真(経路+存在)がネットにアップロードされて多数の人間の目に触れることにより、様々な形(恐怖や好奇心など)で念を籠められ、変質していく可能性もある(彼女は危ない写真とそうでない写真が選別されないということに加え、こういう意味でも心霊写真をネットにアップすることに批判的だった)。
 この写真の心霊写真化という話をもう少し発展させると、何が写っているかではなく、何が写っていると考えるかが写真の影響力を決定する、という話にも繋がる。実際のところ、自分も何が写っているのかを理解できるわけではないし、先入観が大きな影響力を持っているとは感じる。おそらくオカ板の読者の多数であろう自分のような人間にとっては、霊とは存在というよりも何かしら不可解だと感じられる現象を説明する方法論であるのかもしれない。
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2005年10月19日

怖い話のエッセンス

 『怖い話』はどうして怖いのか? ということをふと思いついた。(参考

 所謂怪談の類のキモになるのはやはりお化けや幽霊、あるいはそれに類すると推測される正体不明なモノだ。ではそういったモノの存在そのものが怖いのかというと、必ずしもそうではない。もちろん霊的存在(ひとまずこう括ろう)の存在は鍵になってくるが、例えば隣の部屋や階上の部屋の人間が壁を叩く音が毎日するのはうざったくても怖くはない。が、よく分からないがピシピシと音がするのをラップ音ではないか?と想像し、霊的存在の関与を疑いだすとこれは一種の怪談になってくる。
 また、怖さや恐怖の質も怪談によって違う。フジツボの話や海亀のスープの話は生理的嫌悪感に訴えてくるのに対して、くねくねベッドの下の男などの話は自分の生命身体や生活に実害が及ぶかもしれない、という怖さが主題になってくる。そしてその原因がよく分からない、霊的存在と推測される正体不明なモノであることによって、『どこで遭遇するか分からない』という要素が加わり、怪談化する。これが『街で派手なスーツを着た目つきの悪いおっさんに絡まれて殴られた』とか『海外旅行先で伝染病が流行中』とかであれば対処も容易だし(そういう人や場所は避けよう)、生命身体の危険はあっても怪談にはならない。
 被害の有無で言えば、直接体験として語られる旅行先や有名な心霊スポットでの幽霊目撃談などでは基本的には生命身体に害が及ぶことはない。精々びっくりするだとか気味が悪いだとか、運が悪いと事故にあうぐらいである(そもそも事故死したりすると直接体験として語る主体が消えてしまう)。こういったものの場合、『ありえないはずのモノが存在しているのを目撃したり感じたりする』という状況の不可解さが恐怖を生むことになるだろう。部屋や場所に憑いている霊の話も同様で、出現したり何かしらの現象(金縛りだとか、トイレの水が勝手に流れるだとか)を起こすことで通常考えられないような状況下に自分がいるのだ、という恐怖を与えることはあっても、実際にはそれ以上の害はなかなか及ぼさない。確かに毎夜毎夜夜中に金縛りに合い、首を絞める感触を感じ、うっかり目を開いたら至近距離に血まみれだったり恨みに歪んでいたりする顔がある、などの状況下に置かれれば、それを『生命身体に害はない』とはなかなか言えないだろうが、しかし物理的な意味では実害はないのである。
 逆に伝聞などの形態をとると、自らの体験ではないが上記のような霊的存在を想像させる出来事に遭遇した人間が何らかの物理的被害をこうむった、という条件を付加することができる。くねくねなどの被害型怪談も語る主体の直接的体験ではなく、目撃等の間接的体験に限定される。

 以上のことを踏まえると、会談の怖さというのは『霊的存在がいるかもしれない』という可能性と『もし存在するならば、自分がそれを知覚できない以上、どこで遭遇するかも分からない』という不安に基礎を持っていることになる。結局はよく分からないモノへの恐怖ということになるため、霊的存在が外国人やキチガイやら、極端な場合『自分が知らないモノ』でも代用可能になる(このことは都市伝説にどんなパターンがあるかを見るとよく分かる)。霊的存在や日常に入り込んできた死だけが恐怖の源泉ではなく、もっと大きな枠組みとして日常に入り込んだ非日常が恐怖を演出しているのだ。

 だからお化けや幽霊を心底信じていない人にとっては怪談は全然怖くないんだろうなと思う。存在しないものが原因ですよ、と言われても『存在しないものが原因の訳がないのだから、何か他の原因が(ry』となってしまう。自分は霊的な存在は存在しているだろうなと考えているが、怪談に対しては割合耐性があるとは思う。ただそれでもまだ時々怖い。何せ未だ物理的感覚としてお化けを知覚したことはないのだ。やっぱり最初に見た時には吃驚するんだろうなぁ、と思いつつ、数日前にも金縛りにあったことを思い出す。流石に金縛りはもう怖くない。
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2005年09月29日

書けるときに書いておく

http://d.hatena.ne.jp/kyoumoe/

 ↑を読むと「へー2ch(の利用者の中で頭悪い連中)って嫌われてるんだなぁ」と新鮮な感じ。まぁただ眺めてるだけなら嫌いにはならない…か。

 のまネコ問題について言えば、最新の「のまタコ」が初手で出てきたら理想だったんじゃないかと思う。もちろん公開質問状とかではなく、一種の風刺として。Flashであれコラであれ、企業側が追求しようと思えば明らかに負けるようなものを娯楽として用いている(著作権によって保護される著作物の同一性保護?だっけ? バカなので調べず書きますよ)時点で、法律や企業倫理といった正攻法で相手を攻撃するのには無理がある。
 そもそも2chはある特定の代表者によって管理・維持・運営されている企業ではなく、管理責任者は一応存在するが個々の活動の方針までは定められていない、ある種の枠だけを提供しているモノなので、『2chとして』という代表者による姿勢表明はあまり馴染まないだろうし、むしろ個々の利用者が好き勝手に動くことで自然発生するダイナミズムみたいなものが2chの魅力でもあると思う。それは裏を返せばあちこちで矛盾した動きが同時に存在しうるということで、企業に要求されるような、建前としても実態としてもある程度の統一性と一貫性を持った行動をするのは無理があるんじゃないだろうか。もちろんそれが免罪符になるわけではなく、いざ訴訟という段になれば管理運営者であるひろゆきが引っ張り出されて責任を負うことになる。

 (後から追加)うーんでもある種の集団として何がしかの活動をしている以上、それゆえに負わなければならない責任ってあるなぁ。「柄の悪い連中がたむろする広場を運営する責任者」は、柄の悪い連中がたむろすることに対して周囲に責任を負う必要はないが、その連中が周囲の人間とトラブルを起こした場合にはやっぱり批判されるし、責任をとらないといけない場合もあるだろうなぁ。そうなると普通はトラブルが起きないように管理監督をし始めることになる…まぁ明確に責任を取る必要があるわけではなく、ある種の道義的責任という程度だから、別に利用者を放牧していても法律上は問題ないのか。

 では今回のような著作権を侵害していると判断される可能性のあるFlash等についてはどうなのかと考えると、それが2chの管理下にあるサーバにアップされていない限り、たぶんひろゆきは責任を追及されない気がする。あくまで訴訟の被告になるのはFlashの製作者であり、そのファイルを(企業からの削除要請後も)サーバに保存している者あるいは団体だろう。2chにはそのURLが書き込まれているだけだし。が、今回のような2chを媒介とした不買運動が盛り上がったとすると何か文句を言われそうな気もするが…まだ共謀罪は実装されていないから大丈夫なのかしら(繰り返しますが、バカなので正確な定義や内容を無視して書いてますよ)。

 所謂『社会』の枠組みや縛りの外で好き勝手をやることが2chの魅力や本分であるとしたら、のまネコの一件に対する2chとして相応しい対応というのはのまタコを初手に持ってくることであり、不買運動や著作権絡みの理論展開は二の次でなければならなかったのではないだろうか。自分たちが無視する『社会』の縛りを利用して自分たちの利益を守ろうとするのは、冒頭のブログ主たちが繰り返し言うように、虫のいい話だ。『社会』の枠の外にあるアングラ、サブカル、カウンターカルチャーその他なんでもいいが、そういうものとしての誇り(法律に頼らない、グレーゾーンにある手段で批判する)を持つべきだ…なんていうと古臭い上に説教臭くなる気がするので小声で主張しておく。

 しかし、2ch対エイベックスという構図で見られがちだけれども、実際には(例えば)Flash製作者対エイベックスという構図に収束するわけで、エイベックスがどういう態度をとろうとも、2ch利用者がどんな行動を起こそうとも(それに対してエイベックスから法律上根拠のある抗議や請求が来ない限りは)ひろゆきはまったく困らないのか。そう考えると2ch利用者が『踊らされてる』という感が強くなるし、また文字通り「名も無き一人の人間」である弱者が強者である企業に対抗する手段(=2ch。その実効性については冒頭のブログでは信用していないけれど)が、実は別の強者の利益を生み出している…という皮肉が見えてくるような。

 話は飛ぶけど、ブログや掲示板でくだを巻いてる暇があるなら、自分で他人にブログや掲示板を提供しなさい、それが利益を生むコツですよってことか。それが出来ない人間は一生くだを巻いてすごしてくださいねm9(^Д^)プギャーっていうのが新保守主義ってことでOK?
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2005年09月05日

コンプライアンスが単なるお題目では済まされなくなりつつある

 ちょっと昔の記事だが、今週号の東洋経済のトップ記事だったので少し調べてみた。

http://www.asahi.com/job/news/TKY200508010424.html
http://www.sankei.co.jp/news/050803/morning/03kei002.htm

 今年に入ってから日本郵政公社、東京電力、スタッフサービス、関西電力、そしてマクドナルドと十億円単位での未払い残業代の支払いを行った企業が続出している…と言っていいだろうな、これは。人件費が固定費の中で大きなウェイトを占めるのは仕方のないことであり、それをいかに削るか――それが例え合法と違法のスレスレだったり、表沙汰になれば確実に黒のラインであっても――ということが企業が利益を出すための大きな要素には違いない。
 東洋経済の記事には+αがあって、『各店長の残業代が支払われていない』ということが問題になっている、としている。所謂管理職には残業代が付かない、という俗説は確かにあるが、法律上の解釈で言えば管理職すなわち管理監督者とは、

  近年の裁判例でも管理監督者とは、(1)経営者と一体的立場にあるといえるほどの職務の内容、権限、責任、(2)出退勤についての自由度、(3)地位に相応しい処遇、という枠組みで判断される。いわゆる管理職の大半は「管理監督者」に該当しない、とされている。(『東洋経済』2005・9/10号、P18)

 ということらしい。つまり従業員に指示を出すだけではなく、自らも店頭の現場で作業することが必要とされているような人間は例え店長や課長であっても管理職ではない、ということになる(同上、P19:ファミレスやカラオケ店、モンテローザのケースでそう示されている)。

 さて振り返って自分の会社はどうなのか、ということを見てみると…どうやら労組中央大会でのやり取りがかなりとんでもないことになっていたらしい。後ほど調べて掲載予定。

 まぁいくらCSRの主張やら法律違反行為のヘルプライン設置やらを行っても付け焼刃ではしょうがないということだ。給料に見合った仕事をしたり、より生産性を上げる努力をするのは当然のことだが、従業員にそういうことを求めるのであれば企業自体も襟を正さねばならない。大企業であれば――当然同業他社に対する見せしめ効果を含むのだが――全従業員の中の一人でも労働基準監督署に駆け込めば十億単位での支出が待っていることになる。従業員だけでなく、一般投資家を含めたステークホルダーも短期的な業績だけではなく、未払い残業代などのコンプライアンスに関して経営者に要求をしていくべきだろう。
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2005年08月23日

『嫌韓流』読んでます

各論を知らないのに総論を書くのが酷く滑稽に思えてしまうんだけども、とりあえず書いた以上はアップしておく。

 割り振られた仕事が昨日のうちに完了+継続中の作業の監督者が出張=仕事がない

 http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/senkyo/05shuinsen/news/20050819k0000m010107000c.html
 分かりやすい構図になってきましたね、と。既得権益を守ろうとする郵政族VSそれを壊そうとする『改革者』小泉政権。半ば月並み化しているこのイメージが実態を正確に反映しているのかどうかはさておき、そう解釈しやすい流れと雰囲気作りをしている/勝手にできてきている点は小泉有利という気がするのだが…。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050818-00000003-san-int
 JEFがホラー好きの立場から記事を書いていて流石だと思わされた。こういう自分の強みを生かせるのっていいなぁ、と最近興味と知識が広く浅くどころか狭く浅くになりつつある自分は思うのだった。

 仕切りなおして、これは要するに『嫌韓流』の紙面コピーを事実として採用して、日韓の歴史を解説するのと同じことである…というとどれだけ呆れさせられることか理解しやすいのではないだろうか(別にこのニュースを引き合いに出して『嫌韓流』批判をしようというわけではない)。つまり主張の根拠となる事実ではなく、主張そのもののプロパガンダを尊重するということだ。
 『嫌韓流』の内容がある意味で事実ではあっても、それをどう表現するのかということに関しては、在日やプロ市民を絵としても「厭らしい連中」として描いているという点で、(しばしば朝日が槍玉に挙げられるような)印象操作を行っていることも否定はできない。
 日本とアジア圏の関係を考える際には、韓国でこういった意図的な「日帝の蛮行」の捏造が行われる背景を無視することはできない。歴史が先か、反日プロパガンダが先かというタマゴとニワトリになりかねないので感情的な批判は避けるべきではあるにしても、お互いに良好な国家関係を築こうとするのであれば日本政府はこういった問題にもっと積極的に批判を行うべきである。もちろんその前提には、日本政府と日本国民の真摯な態度というものが必要ではあるのだが…。
 真摯な態度とはウヨクが批判するような永久的な土下座ではなく、併合によってたとえ朝鮮半島に利益がもたらされたという側面があるにしても、太平洋戦争の敗戦という結果によって、日本の行為そのものには国際的に否定的価値付けが行われているのだということを念頭に置き(負ければ賊軍である)、またその内実がどうであっても、自らの国と国籍を失う経験をした朝鮮半島の人々の(当時の人の、当時の人から伝えられた現在の人の、あるいはプロパガンダによって形成された)感情に配慮して、公の人間が公の場でそのような主張をすることは差し控えるべきだという意識が国民の中に共通して抱かれるということだ。平たく言うなら、「俺らの行動が全部マイナスだったなんて思ってないけど、そう主張するのって道義に反するから黙ってなきゃいけないよな」ということだ(この意味では『嫌韓流』などが日本の朝鮮半島併合の歴史に関して、別の観点からの情報を提供していることは評価に値する)。
 そういった意味での真摯な態度を取った上でなら、相手が外交カードとして歴史認識や過去の清算等を振りかざし、全く別の領域で譲歩を要求してきた際には「それとこれとは話が別だ」と切り捨てることができるだろうし、逆に両国の友好的交流を主張し、相手国内での反日プロパガンダを批判することも可能になるだろう。「中韓は日本がどんな態度をとっても結局歴史問題を振りかざしてくる」という批判もあろうが、日本が国際的に(中韓に、ではなく)評価されうるような歴史的事実に対する向き合い方をするのであれば、外交カードとしての歴史問題は弱体化するはずである。もちろん国際的評価を得るためには『日本的慎ましさ』に基づいて黙って示そうとするのでは不十分であり、右傾化していると批判される可能性がある方法は避けつつ、国内ではなく国外に向けて『正確な』歴史的事実に基づいた日本の歴史認識をアピールしていかなければならない。この部分では中韓が一枚も二枚も上手なのでは、という印象を受ける(国際的な歴史認識のアピールに関しては、所謂「ウリナラ起源」の問題もある)。

 ただ、結局のところ太平洋戦争は日本の過ちでした、と総括してしまうと、兵士として戦場に赴き、戦死した日本人の家族にとっては「では私たちの家族の死は一体なんだったのだ」ということにもなろうが、個の感情としての見地と、公の論理としての見地は必ずしも一致しないということを理解することも、国家としての優越を勝ち取るためには国民一人一人に要求されることだろう。(国家としての、と書いたがこれは別に全体主義的な意味での利益が最上のものだと言っているのではない。どのような見地からの利益が最上のものかを判断する権利は個々人に与えられているが、それ以外の見地からの最上の利益が存在するということもまた知らなければならない、ということである。またそういった国民一人一人の自覚的思考がその国の政治や文化のレベルを押し上げていくことになる)
 嫌韓を気取る人間の中に、併合後の朝鮮半島に日本が与えた恩恵を声高に主張することによって得られる利益と、それを行うことによって現在の国家間関係にもたらされる不利益を天秤にかけているのだろうか。または将来的な利益のために現在の不利益を我慢するという判断をどれだけの人間ができるのだろうか。
 例えば「既に在日には特権的な地位が与えられているじゃないか」と指摘することは、現状を正確に把握するという意味では、今後自分たちがどのような行動をすべきかということを考える土台を作るだろう。しかし在日や韓国をバッシングするということが目的化すれば、おそらくそれは嫌韓という思想から得られる利益を最大化させることができないままに終わることになる。

 で、この主張の最大の問題点は、「一体どの側面からの最大の利益を追求したらいいんだ?」ということが個々人の判断に委ねられてしまっており、「人それぞれ」に逃げ込んでいるということだ。価値観が人それぞれではあっても、異なる価値観を持つ人間を否定したり拒否したりせず、歩み寄ろうとする努力が個人レベルでは大切であり、そのためには少なくとも多様な価値観とその目指すところがあるということを知らなければならないのだ、とまとめてお茶を濁す。

 「人それぞれ」への逃亡と同様に、その内実が実質的に規定されずに使用されている言葉は他にもある。最近ではウヨクサヨク問わず頻出するマジックワード、「国益」がその最たるものだろう。どのような状態を「国益」とするのか、という問題については個々人の価値観に基づいた「人それぞれ」の像があるはずである。また、国益は国の利益であって、それゆえ国を構成する国民である個人の利益にもなるかもしれないが、しかし個人の利益そのものではない。
 一方「国益」とは必ずしも「自分(たち)の利益」にならないかもしれないが、という前提でこの言葉を使っている人間はあまり多くないような気がする。中韓とのつながりによって個の利益の追求する政治家を「売国政治家」と罵倒するのであれば、「国益」が必ず自らの利益のみをもたらすものという前提の下で使用している人間も、同様の批判を逃れることはできないだろう。
 「国益」とは誰にとってのどのような利益なのか? という問題の答えを明示せずに使用するのは非常に危険である。こういうとサヨク的思考に染まって云々と批判されそうだが(自分は太平洋戦争中の全体主義を連想してしまう…これが戦後民主主義とサヨクの行った刷り込みだと言われる可能性は高いかな)、では「国益」とは実体的には何を指すのだろうか。
 仮に日本国の主権の保全と経済的発展だと仮定しよう。しかし「国益」が主張されるのはもっぱら中韓との関係においてであり、日米安保体制の下、政治に強い影響力を持つアメリカに対しては同様の主張はあまりなされないように思う。アメリカの言いなりになることは国益を損ねないわけではないだろうが、とはいえ実質的に反抗できないというのも事実、ということだろうか。
 また、(google earthでは東海に改称されてしまった)日本海の地下資源の確保等によって日本が経済的利益を得たとして(それを失うよりは確実に日本の経済状況にとってプラスになるにせよ)、それが日本国民全体に対して等しい利益を与えるわけではない、ということも留意しなければならない。また、世界の胃袋である中国との軋轢によって、大局的には資源の確保によって得られる以上の損失を出すようでは元も子もない。
 「国益」という言葉が、それを得ることで国民の利益になるという目的ではなく、大義名分として掲げられ異論を封殺するための手段になりかねないということが問題なのである。何が国民の利益になるのか、という議論において、一見分かりやすい短期的な利益やプライドの確保を主張する根拠として「国益」が唱えられ、説得力を持ってしまうような状況を作ってはならない。だからといってこの言葉を使うべきではない、と主張するわけではない。この言葉が一体何を示していて、その示すものはどのような問題(日本国民を同質的な集団だとするのはおそらく間違っている)をはらんでいるのか、ということを意識しなければならないということだ。
 そして国民一人一人が一体何が自分たちの利益で、隣人と共有できる利益で、国内で共有できる利益で、また中韓を含めた世界と共有できる利益なのかを考えられるようにならなければならない。そのために絶対的に必要なのは自分の頭で考える、ということだし、そのために今まで与えられなかった情報を(その形態に議論の余地がないわけでもないが、その議論も有益だろう)与えてくれる嫌韓という流れは歓迎すべきことである。
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2005年08月02日

七月勤怠表

 何のかんのと言って結局定時勤務のみと記入して提出しましたとさ。


 そもそも総計6時間程度なのだが(その半分はWSのバックアップ)、WSのバックアップもその時間に普通に残っている人はたくさんいたし、わざわざ自分がやる必要がない=教育と訓練のために自分に振られてきた作業なのであって、残業代を申請するならば、会社にしてみたら(短期的には)余計な支出が発生することになるのは間違いない。
 今月に入って全体的に定時以降の退勤の割合は増えそうだが、それにしても自分が給料分だけ働いているのかという問題は生じてくる。まぁ七月中とは違って、暇な時間を持て余すということはなくなりそうなので、時間を拘束される対価としては請求しやすくはなるだろう。とはいえ一人前の仕事が出来るわけではなし、一方ある程度仕事が出来るようになる一年ないしそれ以降まで残業0申告をし続けていると、ある時点を境に前年比で人件費が増大する(今まで申告していなかった残業代が発生し始める)ため、結局残業短縮圧力にさらされる結果になるのでは…と思うと夜も眠れ(ry

 今月分はぼちぼちつけてみようかと考えているが、それ以前に達成すべきは心身の健康維持と資格の勉強であろう。
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2005年07月30日

サービス残業が許せないのは教師の子だからとか言われると

 思考停止と状況の受容は紙一重であっても異なるものなのに、それを同一でありなおかつ良いことのように主張する言説に腹が立ってしょうがない。

 世の中は正論が通るとは限らない

 ならば、何故企業の理屈は常に通ってしまうのか?

 サービス残業の弊害は
・残業がどれだけ発生しているか把握できなくなるので、適切な人員配置と採用計画が立案不能になる
・労働力の対価を支払わず、従業員を搾取する状況にあるという点で社会的責任を果たしていない
・建前上であっても禁止されていることであり、常に行政からの指導で追加の費用が発生し、また企業イメージが傷つけられるリスクが生じる事になる

 加えて
・個人の労働力と個人の時間は密接に関係しているため、多くは時間を売って生計を立てている
・労働力の質や生産性の向上は可能だが、個人の持つ時間を拡大することはできない
・サービス残業は以上の二点から、労働者の人生そのものに対して基本的に有害となる

 もちろんサービス残業も厭わず仕事をし、能力を高め、出世するなり(サービス残業をさせる側になる)転職するなり独立する(残業の概念自体がなくなる)ことを否定するわけでもなく、場合によってはサービス残業を単純に拒否するよりもより大きな成果を得ることも出来るだろう。それはそれでよい。だが果たしてどれだけの人間が以上のような目的を持ってサービス残業を受け入れているのか?
 先輩が/上司がやっているから仕方なく…と言っている者は、自分の人生だけでなく後輩の人生も損なっていると知れ。言われたことだけをやっていればよいと思うな等、従業員の(仕事に対する)自主性のみを要求するのはいかにも虫のいい話だ。自主性を要求するなら自らの経営に対する批判も甘受すべきではないか。

 認めていない残業代を全て支払えば経営状態が現状より悪化するのは確かだろうが、払わなければ単に労働力を搾取しているだけである。正論としては、残業代が過大に発生している現状を把握した上で、それを適切に改善していくことが最善の策のはずであり、企業経営者に求められることのはずだ。


 まぁ、こういう論を吐くと「若いから」「社会を知らないから」と笑われ、「大学に戻ったほうがよい」とまで言われるわけだが。おまけにその理由に表題の一文を持ち出された日には激昂するのもやむなしってもんですよ。

 思考の基調がサヨクなのは、親が教員だからかも知れませんがNE。
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2005年07月29日

自己抑制か、はたまた酒のせいか

 WSのバックアップで退社が21時を過ぎ、寮に帰って取り置きしてもらっていた食事を前にすると先週から散々飲んだはずなのにビールが欲しくなる不思議。

 発泡酒で我慢しながら付けっぱなしだった食堂のテレビを眺めていると、TV朝日の報道ステーションで戦没画学生の特集、無言館の様子を放送していた。それを見ていると何やら無性に切なくなってしまった。

 改めて言われるまでもなく、戦争は誰にとっても悲劇だ。それが戦場に赴く者にとってはなおさらだ。無言館に展示されている絵と、その作者たちのことを知らずともそれは自明の理であり、ゆえにそれらの姿を改めて示されれば否応なくその思いは募る。

 戦争に対して悲しみを抱く一方、何故戦争が起こったのかという問題がそこには存在しているはずであり、当時の日本に戦争という関わった者たちを確実に不幸にする手段を選択させた背景を不問に伏すことはできないのではないだろうか。戦争は嫌だ、反対だと言うことは誰にでも出来るし、またその結果を悲しむことも同様である。自分はそういった態度を批判するつもりはないし、実際番組を見ていて無性に悲しくなってしまった。珍しいことに。
 戦争の背景に目を向けろというのは、別に今までのエントリーで何度か述べてきたような、ネット右翼的主張を再度繰り返そうというつもりではなく、何故戦争は悲しいのか、或いは自分が戦争を悲しいと感じることが、他者にとってどういう意味を持つのかということを考えなければならないと感じたのだ。

 戦争を批判し、回避しようとする理由はなんだろうか。それは人々が不幸にならないためであるはずだ。しかしこの『人々』の範囲や定義が主義主張によって変わってくるということが肝で、ある人は全世界の人間を想定し、またある人は一国の国民を、また別の人はもっと小さな集団を想定するだろう。
 これらそれぞれの-izmが自らの主張に説得力を持たせんとする時に、自分が感じた戦争に対する切なさ、悲しみは一体どのように利用されるのだろうか。やれネット右翼だプロ市民だとレッテルを貼り合い、自らの主張を通そうとすることが、果たして本当に幸せを導くのだろうか。
 TV朝日だから、という先入観がそうさせたということを完全に否定することは出来ないのだが、メディアが戦争の引き起こした悲劇に注目することで見るものの感情を揺り動かし、その揺り動かされた感情をどのように利用しようとするのか、という問題は自分の感情を素直に受け取るとともに、忘れてはならない観点であるはずだ。

 そんなことを感じながら、果たしてこれはある種の自己抑制の結果なのか、それとも切なさそのものが酒のせいなのか良く分からずにいる。世の中をどう理解すればいいのかも難問ではあるが、一方では自分自身を理解することも永遠の難問である…かもしれない。
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2005年07月20日

資金稼ぎ

 彼女から結婚までの具体的予定を考えなさいと課題が与えられたわけだが、自分としてはまず金の問題が頭の中を占めている。で、今月の給与が諸々の天引きの結果15万を切ったということもあり(それでも家賃3000円の寮に住んでいるので5万ぐらいの貯金は余裕なのだが)何とか収入を増やせないものかと思案してみる。

 まず思いついたフルーツメールやちょびリッチなどの手段、これは懸賞メールでぐぐると山のようにヒットするオプトインメールの類だが、優良とされているところでも1Pts=0.5円で、1アンケートに付き30ptsというレートである。1アンケートを適当に回答したところで5分15円、アンケートが無限に発生すると仮定し、それらでコンスタントに稼いだとしても時給180円である。結局のところ自分のサイトで宣伝して、そこからの加入者を増やしてボーナスポイントを稼ぐ以外に実質的な収入は得られない。
 そんなところに一時間も時間を使うなら、残業を1時間申請したほうがマシである。時給換算で1300円程度の自分でも、残業手当ては一時間当たり1.25倍の1600円ぐらいになる。非生産的なメール受信とバナークリック、アンケート消化に費やすよりもよっぽど効率がいい。

 翻って時間の投資による収入の増加ではなく、資産を利用した投資、例えば株式投資はどうだろうか。これは前述の手段とは違って自分が日々どう過ごそうとも(過剰な支出をしなければ)影響を受けない貯蓄を使った方法である。利息が付く時期が決まっており、その付近は投資金額が割り増し気味になったり、株式自体を売却する際に購入時よりも値下がりしているという可能性があるといったリスクはあるものの、ただ銀行に預けておくよりは大分よい利子が付くのも事実である。
 しかし結婚を見据えた貯蓄という側面からは、結局必要とされるのは必要なときに引き出せる現金であり、いくら有利な運用が可能になるかもしれないとはいっても、ワンクッション置かなければ現金化できない株式投資は結婚用の貯蓄には向かない。株式投資が有利となるのは、結婚に際しては消費されず持ち越しとなる資産に限定されるだろう。

 まぁ何がいいたいかというと、今日の日経産業新聞によれば任天堂の夏のボーナスが我が社の通年賞与額を超えてましたよって事だ。ぬるぽ。
posted by mizu at 22:35| Comment(1) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月25日

Musical Batonとエニアグラム

 シスから回ってきたのでMusical Batonを。

Total volume of music files on my computer
-初回起動時から増量0。何せ3月にクラッシュしたので…

Song playing right now (今聞いている曲)
-作業中は無音。

The last CD I bought (最後に買ったCD)
-鬼束ちひろ「インソムニア」(だと思うのだが…この数年買った覚えがないので不確定)

Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)
-ARIANNE “Komm, susser Tod”
-CLAIRE “Fry me to the moon”
-boa “Duvet”
-鬼束ちひろ “インソムニア”
-Eurythmics “Sweet dreams”

Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)
-AS

(´゚ω゚`)ほかに渡す相手ががが

〜〜〜〜
 ついでにエニアグラムも。

タイプ 1 2 3 4 5 6 7 8 9
得点  4 2 1 8 9 6 3 6 4

タイプ5
適職ということですかね。

〜〜〜〜
 エントリ作成のためにWebを見てたら、boaの2ndアルバムがUKで発売されてる模様。残念ながら日本ではまだ未発売のようなので思い切ってPayPal経由で通販してしまった…。
posted by mizu at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月23日

ジェンダーフリーはバッシングされるべきか その2

 その2というよりも簡単なフォローを。
 「フェミナチを監視する掲示板」
 「フェミナチを監視する掲示板を監視する掲示板」

 以上二つ、レッテルの張り合いの一例として。
posted by mizu at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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