2014年04月07日

規則正しい生活

■一ヶ月半ぶり三度目の帰国を果たしたわけだが、生活習慣というのは急には変えられないらしい。一人寝る夜のなんとやらと嘆いていたかと思えば、布団をシェアしての睡眠では寝つけなかったり…。

□そろそろ就職10年目にはいろうかという状況で、さて同級生たちはどうしているのか、と動向が気にならないかといえば気になるのだが、それが果たして純粋な興味であるのか、それとも(劣位の)比較対象を得たいという欲求からなのかが判別できない。自分という人間が他者に対して持つ興味には多分にそういう要素が含まれてしまうから品性下劣だというのだ。よって人と交流しないことで高潔であろうとするのである。

■留学先の大学の休暇中に四川に旅行に行って、本場の麻婆豆腐を食べてパンダを見た。春学期が始まってからも授業を数日サボって親と妹と台湾に旅行に行った。こういう中国語が実用の道具として利用できる状況を経てなお、言われているから勉強しているという動機の域を出ないのにもかかわらず、「もう一度学生として生活できてよかった」「自分は学ぶことが好きなのだと感じた」と臆面もなく表現できてしまえる厚かましさを、対人関係へ振り分けられればよかったのにと思う。学生の時分に異性と交流が持てなかった事を後悔しながら、いざもう一度学生の立場になった時に、異性どころか同性の同学者とも碌に交流が持てない自分を認識して、夢はやはり夢でしかなかったと思うのは、成長というべきか、それとも鈍化というべきか。

□ロシア人の留学生が「日本の作家ではミシマが好きなんだ。『金閣寺』を読んだことがある」と言うのに対して、「ドストエフスキーとトルストイの名前だけ知っている」と返答するしかない怠惰さをどう処理したらよいのか。就職してから自社の中では勤勉であったと自負しているにも関わらず、会社という枠を外して自身の生活を振り返れば、根本的な部分で怠惰であったと認めざるを得ない。まして現状の生活の中で、妻帯者であったり子持ちであったりすることを怠惰である口実に利用していないと胸を張って言えるのだろうか。

■もう一度怠惰であることと勤勉であることとを考え直さなければいけない。立脚できる立場を構築することは勤勉であっても、構築した後にそれに依存するのは怠惰である。自己の評価のみで進歩を認め、他者からの評価を省みないのは怠惰であるが、他者の観点に依存して自分自身を見つめないのは勤勉とは言えない。勤勉であろうとすれば、自己を常に変えていかなければいけない。しかし、安息とは変化の否定ではないのか。だとすれば、安息のために勤勉であるということの矛盾を、どのように捉えていけばよいのか。

□「現実は理想のようには行かない」という表現で、自分が望む姿をごまかしていないか。「清濁併せ呑む」ことは、理想と現実を分別しないことなのか。もう一歩進みたい。一度分かったつもりになった現実の中を、もう一度理解しなおすための一歩を。
posted by mizu at 04:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/393993766

この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。